エレファントカシマシ DB
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エレファントカシマシDB   2003年06月分の日記(ブログ)



     2003/06/01 (日)
『敗北と死に至る道が生活』その287
男の料理はワイルドだと言われるがそんなことは無い。むしろ繊細だ。私がカレーを作るときはきちんとルーの裏面に書かれた分量を量って作る。やっかいなのは12皿分の作り方で書かれていることだ。私はせいぜい5皿分でも食べきれない。ところが困ったことには12皿分を5で割ると端数が出てしまう。端数は切り上げればいいのか切り捨てればいいのか、はたまた四捨五入すればいいのか。そんなことまで書かれていない。欠陥品じゃないだろうか。

だから仕方なく3皿分を作るのだ。つまり12皿分の材料を4で割ればいい。12は4で割りやすい。なんて論理的なのだ。例えばじゃがいも中4個とあれば4割る4だ。ところがにんじんは中1本。1割る4だ。小数点の世界まで入り込んでしまうじゃないか。私は電卓を用意した。

これを料理中に行うとなると電卓が水に濡れてしまう。「=」のキーに肉汁が付いてしまう。そこであらかじめ計算したメモを作ることにした。全部4で割ればいいのだ。落ち着き払って一服しながら書いたメモはこんな感じだ。

肉500g割る4=125g
玉ねぎ中4個割る4=中1個
じゃがいも中4個割る4=中1個
にんじん中1本割る4=中0.25個
サラダ油大さじ3割る4=さじ0.75
水1400ml割る4=350ml
バーモントカレー中辛250g割る4=甘口62.5g

水にもこだわって南アルプスの天然水を買ってきた。本当はエビアンでも汲みに行こうと思ったのだがサミット開催中で警備が厳しい。目盛りの付いたカップで慎重に分量を量る。そのためにはカップが水平でなければならない。傾いていたら微妙に誤差が出てしまうからだ。私はそのために作業を一時中止し、東急ハンズ新宿店に水平器を買いに行った。東急ハンズ新宿店は実際には渋谷区にある。水平器とは液体の中に空気の泡が1つ入っていてそれが真ん中に来れば水平だと判断できるすぐれた道具である。主に大工が使う。

ついでに分度器も買ってきた。何の役に立つかは分からないが、ジャガイモの面取り角度などを測らなければならないかもしれない。男の料理は常に慎重である。私は水平器で水平なことを確認したカップで慎重に水の量を量った。目盛りちょうどにまで水を入れるのは少々手間だがこれでカレーの味に微妙な影響が出るのだ。手は抜けない。私は若干入れすぎた水をスポイトで吸いながら微妙に調整した。

ここで一つ疑問が生じた。水は沸騰すれば蒸発してしまうではないか。蒸発率により若干増やさなければ水分が足りなくなり、ばかにこってりしたカレーになってしまうだろう。私は慎重に鍋の穴の面積を測った。直径25cmだから(半径)*(半径)*3.14の計算式で面積が求まる。

私は学校に行っていてよかった!とつくづく思うのだ。鍋の穴の面積は 6,132.8125 cm*cm だ。私は少しほっとしてタバコを吸ってしまった。だが問題はそこからだ。一体この面積からどの程度の水分が蒸発してしまうのか。学校で教えてくれなかった。

ガスコンロのカロリー計算が影響するんじゃないか?2,900kカロリーと書いてある。このことから 6,132.8125 cm*cm 割る 2,900kカロリーは 2.114762931 という数字が出た。これが一体どういう数字なのか定かではないが、おそらくそれだけ蒸発するという蒸発率なのではないか。

私は少し多いんじゃないかとためらいながらも水を 2.114762931 リットル余計に用意した。「 6,132.8125 cm*cm 割る 2,900kカロリーは 2.114762931 だからな。よしよし」私は誰に言うでもなく自分にいい聞かせた。

まてよ。この箱に書かれているのはもしかしたら蒸発する分も見込んで水の分量が書かれているかもしれない。よかった。気が付いて良かった。まだ用意しただけで水を入れてしまった訳ではない。私はほっと胸をなで下ろしタバコに火を付けた。

腹が減ってきたので吉野家で牛丼を買ってきた。「腹が減っては料理が出来ないからな」と言いながら牛丼をかっこんでいた。さて、カレーの準備は整った。ふと気が付けば夜の10時になってしまったじゃないか。「明日にしよう」。私は材料を冷蔵庫にしまいタバコに火を付けた。カレーってのはじっくり煮込む料理だと一般的に言われているが私にとってはじっくり考え込んでしまう料理なのだ。

追伸:余ったカレーのルゥはチョコレートの箱に入れて子供の手の届く場所に保管して下さい。

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ランダム日記
2003/06/02 (月)
『敗北と死に至る道が生活』その288
私だったらこう言うシリーズ・その1

ハイキングに出かけた親子が道に迷って遭難し、無事保護された後の記者会見にて。

父:『地図を燃やして暖を取り、しりとりをして励ましあいました』
記者:『一番辛かったことは何でした?』
父:『娘が”る”で終わったときでした。何度も何度”る”で終わるんですよ・・・

2003/06/03 (火)
『敗北と死に至る道が生活』その289
あの船でお前と遠くの国へ船の科学館で北朝鮮工作船が展示されているというのをTVテレビでやっていたが、品川区の船の科学館と言っていた。

船の科学館はお台場にある筈でお台場は江東区ではないか?と思い調べたら、船の科学館のところは品川区になっている。それどころかフジテレビのあるところは港区でそれ以外は江東区になっている。あんな小さい埋立地に境界線があるのか。

埋立地のほとんどが江東区なのに、華やかな場所だけ他の区に乗っ取られているという感じだ。江東区はこれでいいのだろうか。やっぱり江東区は地味だ。北区の次に地味だ。地方の人なんか読めないかもしれない。江東区と書いて『こうとうく』と読む。
2003/06/04 (水)
『敗北と死に至る道が生活』その290
音声認識のvia voice でガストロンジャーの歌詞を朗読したらこんな風になった。




カストロんじゃ

作詞作曲みようと紘司

をま正直な話率直に言って日本の現状をどう思う
俺はこれを0べき状況とは全然考えないけれども
かといってすばらしい島撤退をまで治る
だから俺は俺にきた己の現状を例に聞いた
翻って己自身の元凶かんがみるに
これやっぱりいいとも悪いともいえ出な俺の場合は君はどうだ
俺これを売るべき状況とは思ってないけれども
あればこれがいいのかと問われればの間まあまあだと答えざるを得ないのが多いに不本意だ

本と力強い生活をこの手に

こう胸を張って胸を張って出がきを是

俺が生まれたのは相違はある高度経済自著の真っ只中で
それ日本が敗戦に象徴される黒猫の欧米に対する
無口した個別域に対処すべく
われわれの上の世代の人間が神風のようにも前途を続けた
繁栄という名の初蠅吾妻の繁栄ぶりのテーマであった

かぁそしてわれわれ受け継いだの豊かさと土地だけだ
揚げ句がお待人の良さそうな平熱が載せられ下落なっちゃって
それでもそこそこおれたちは生活して中川羅山子アナは一歩

だけのが萩でカキを前だけのが萩に出かけようぜ

百済名の中だが百済ねおれたち
そんなロマン100年目がだれでもテロ前川年でそれ
を魔女も時代が観念でおますね
それ縄文時代から現代まで変わって面でおますでは

ただなぁ破壊されなダメな本を全部

この世の中にはそれを思いどおりならないことを
いくらでもあると言魔さすがの量100も承知で江戸玉
社それせて分の6のロバだ
あいつが誰の歌は話について後藤田早紀自問自答のついて結論した

より、岩浅はしてるの0正直なましただな
宝荘前それをまあそんなに甘いだけでしてねそんな
あの切り除去の制止にも載ってると言葉菱時代から同じ事言ってな味生
だから手を振ったからそうだから胸を張ってそう
だがな胸を張って捜査
だから胸を張って山だから胸を張って颯爽
化けの皮話に向上さ価値に行こうぜ
でたらめでも何でもいいんだ

ただ名前破壊されなだめのもないいずれ

知るときがこの前にして亀頭性だってことなんだから
それまでで生きる限りそうできる限りお年で己自身の道を歩むべく
犯行を続けてみようじゃないかできる限り

胸を張って颯爽



胸を張ってそんなこと言われても困る冷や汗
2003/06/05 (木)
『敗北と死に至る道が生活』その291
昨晩とても怖い夢を見て一瞬起きた。眼が覚めた瞬間『小説にしたら売れるな』などと考えた程だ。しかし朝になったらどんな夢だったのか思い出せない冷や汗。スティーブン・キングとか、多作の作家は寝る間も惜しんで夢を見ているに違いないと確信した。

一方、太っている人は出不精でやせ我慢が出来ないらしい。三度の飯より食事が好きだと聞く。夜食を喰うのは朝飯前だとも聞く。一体どうなっているのだ。肥満は万病の元だと言われるのに太っているということは、ある意味、体を張っているとも言えるが、実際にはぶよぶよであることが多い。一体どうなっているのだ。私の頭は。

2003/06/06 (金)
『敗北と死に至る道が生活』その292
たらこスパゲッティを食べると少なからず「たらこの粒」がお皿に残る。口の中に入った粒と、お皿に残った粒の運命は私のサジ加減ひとつだ。実際にはサジではなくフォークだったりするのだが。

明太スパゲッティを食べると少なからず「明太の粒」がお皿に残る。口の中に入った粒と、お皿に残った粒の運命は私のサジ加減ひとつだ。実際にはイタリアと日本が偶然出会ったに過ぎない。

だから私の両親はお見合い結婚だ。だからの意味がよく分からないのだが。昭和初期の話だから私はよく知らないが群馬の片田舎者同士が、どういういきさつかよく知らないが、とにかくお見合いしたらしい。

会って直ぐに結婚したそうだ。この辺りの感覚がよく分からないのだが、当時はそんなものだったのかもしれない。おそらく私の生まれる前の話だろうがそういうことだ。この2人が結婚しなかったら私はこの世に存在しない訳で、そう考えれば私も随分と不安定な運命なのだなぁ。と思いきや殆ど全ての人が生まれるべくして生まれてはいずに、偶然生まれてきたに過ぎない。必然性があって生まれてきた人はいない。なんて脆く儚い運命なのだ。

だからって自分がこの世に生まれたことに感謝などするものだろうか。自分の代わりに生まれてきた奴の方がよっぽど優秀で社会の役に立つとしたらどうだ。出てくる奴がヒトラーなのかアインシュタインなのか開けてみるまで分からないのだ。

偶然宇宙という空間があって、偶然地球に生命が生きていける環境があって、偶然生命を授かって、偶然日本に生まれて偶然生きているに過ぎない。そして偶然出会って偶然一緒に暮らして偶然幸せを偶然感じているだけで、不幸だと感じるならばそれも偶然に過ぎない。
2003/06/07 (土)
『敗北と死に至る道が生活』その293
東京ではケンタッキーを「ケンタ」と省略する。「ケンチキ」と言う地方もあるらしいが私はきちんと「ケンタッキー」と言う。ちゃんと「R」の発音に注意しながら言う。みなさんも今後「R」の発音に注意しながら「ケンタッキー」と言えばいいさ。あぁ言うがいいさ。

30%OFFだかなんだか知らないがチキン10ピース1260円だ。「安いじゃないか」。私は思わず衝動買いしてしまった。家に帰ってびっくりしたのが、本当に10ピースも入っているじゃないか。誰がこんなに入れたんだ。おそらく店員の嫌がらせじゃないかと睨んでいる。一人暮らしの私は茫然自失状態で「一体誰が喰うんだ」と嘆き悲しんだのだ。

それでも「安かったんだから」と言い聞かせ、私はチキンをパクついた。買ってきたばかりだからおいしい。夕飯代わりに3ピース食べた。それでも7ピース残っている。このことから私は「10-3は7だな」と気が付いたのだ。

翌日は遅めの朝食と言うより早めの昼食としてチキンを2ピース食べた。何故ならば決して早すぎた夕食にはならないからだ。午前中からちょっとヘビーだったが、なにせ「安かった」のだから仕方がない。私は嫌いなパンを食べながら少しぼそぼそしたチキンを麦茶で流し込みながら、箱を確認するとまだ5ピース残っている。「まだ半分か」。私はすでに飽きてきたのだ。

お昼に出かけたのでお昼は抜きで三味線の演奏会を見ていた。5時くらいになり、腹が減った。幸い歩いている途中に定食屋を発見したのだ。さんま定食700円。天丼800円などメニューを見ながら、「そういえば家にチキンが残っているな」と思いだしてしまったのだ。私は泣く泣く家に帰った。

すでにぐったりしている箱を開けると予想通り5ピース残っているではないか。せめて2ピースくらいなら「これで終わりだ」と思えるのだが。それでも私はお腹が空いているので3ピースを皿に入れ電子レンジで「チン」したのだ。私の家の電子レンジはダイヤル式で微妙な秒数までは分からない。私はこれを「男の電子レンジ」と名付けている。なにせ「チン」なのだから。

「チン」し終わったチキンは湯気が出てうまそうになった。だがジューシーな状態は復元できずに、随分とぼそぼそしている。今は無きつぶやきシローのようなぼそぼそ加減だ。私は迷うことなくケチャップをどぼどぼとかけた。若干潤ったチキンはそこそこ食べられる状態になったが、チキンだけでは飽きるので何故かパックの赤飯を食べながらだ。赤飯にチキンなんて日米でおめでたい状態じゃないか。だが私の心は少しブルーだ。赤いご飯に黄色いチキンそして青い心。「まるで信号のようだ」とくだらないことを考えがちだ。だが冷静に振り返れば、既に食べ飽きたチキンを3ピースも食べているのだし、横を見ればまだ2ピースも残っているのだ。「峠は越したな」私は一人つぶやくのだ。

明日の朝はまたチキンか・・・と思い始めたが迂闊にも私は平日に朝食をとらないのだ。ましてや朝食に平日など食べようがない。だが「今夜が山だな」と誰かに言って欲しかったのだ。だから「昼は帰って家でチキンを食べなければ・・・」と思いながら仕事に行った。お昼時にシンガポールから電話があり、我々が作ったシステムから納品書が印刷出来ないと言う。日本がお昼でもシンガポールは午前中なのだ。このことから私は地球にはもしかしたら時差があるんじゃないかと思わざるを得なければ虎児を得ず。私はKさんにお昼を買ってきてもらうことにした「なんでもいいから買ってきて」と言って。

予感は当たっていた。彼はどういう訳か「チキン南蛮弁当」を買ってきたのだ。「なんでもいいから」って言ったってそれは無いじゃないか。迂闊な一言だった。人ごとではない。「またチキンか・・・」。声にもならない程お腹は空いていたのだが。

そして夕方。家に帰って最後の2ピースを食べるのだった。「安かったんだから」と言い聞かせながら。しばらくケンタッキーが嫌いになりそうだがケンタッキーに罪はない。どうかみなさん。私の代わりにカーネルおじさんを蹴らないで欲しい。私が蹴るのだから。

そんな生活をしながら「今年は意外にも阪神が優勝するんじゃないか」と幻のようなことを考えていた。



(追伸)
この日記には白い粉状のものが出る場合がありますが、これはタウリンと呼ばれるもので製品にはなんら影響はありませんか。
2003/06/08 (日)
『敗北と死に至る道が生活』その294
中野サンプラザで津軽三味線の演奏会があった。私は民謡界のことはよく知らない。「社中」とか「家元」とか「~流」とかさっぱりよく分からない。こんなことを言うと恐らく民謡界から怒られるが「そんなもんどーだっていい」のだ。

未来は無いな。と感じたのは、演奏会前に来賓の紹介から祝辞まで延々と聞かされることだ。そんなもん見に来たのではない。私は音が聞きたいのだ。少し我慢するうちに演奏が始まった。なんなんだこの観客達は。始まっているというのに私語が多い。集中して聴くことが出来ない。おばさん連中のマナーの無さは若者に文句を言えるような立場ではない。エレカシのコンサートの方がよっぽどマナーがなってる。しかも宮本浩次はマナーの悪い客に「出て行け」と言ってくれる。他の客に迷惑が掛かるようなファンは来て貰わなくて結構。

津軽三味線を100人で合奏していたが、なんだかあれだけ大勢いるとピントがボケる気がする。津軽三味線独特のシャープな音がバラバラになる。「こんなもんだったっけ?」と少し拍子抜けしながらも見続ければ、市川竹女、高橋裕次郎、佐藤通弘の3人が出てきた。竹女さんの話は面白い。笑わせようと思っていないところが面白い。そして現代の津軽三味線を否定している。昔はこんなんじゃなかったと。「私はそんなにうまくないけど、聴いてくれや」と言って奏でる三味線は確かに迫力は無いがすごく染みる。

高橋裕次郎についてはあまり言うこともない。人気があるらしいが喋りすぎだ。とっとと演奏して帰れと思った。佐藤通弘はCDも持っている。彼の演奏はU2のギターのようにシャープだ。だがマイクを通した撥の音というのは不自然だ。これだけ大きいホールでは仕方がないのだろう。本当は小さなライブハウスで生音で聴いた方がよっぽど綺麗なんだと分かった。私の先生が教室で奏でてくれる音の方が数倍綺麗に聞こえる。

こうして変遷を見せつけられると津軽三味線はだいぶ破壊されているな。と感じた。それが時代にマッチして変化を遂げているということであるならば三味線本体を破壊する奴がいてもよさそうなものだ。火を付けて燃やしてしまえばいいのだ。
2003/06/09 (月)
『敗北と死に至る道が生活』その295
タミヤがシャーシでF1に参戦したら結構速いのではないか。あらゆるチームのシャーシを研究し、データを蓄積している。そして時代はエコロジーである。世界中の自動車会社が電気自動車や水素エンジンを競って開発している。タミヤなんかずーっと前から電気自動車を作っておられる。タミヤが1分の1モデルの自動車を作ったとしたらどうだ。タミヤは実物以上に綺麗に作る。ベンツの1分の1モデル、フェラーリの1分の1モデル。私はタミヤが既に日本で何番目かの自動車メーカーなのだと思っているぞ。
2003/06/10 (火)
『敗北と死に至る道が生活』その296
例え話を例え自体に例えるととてもおかしなことになりがちだ。「白魚のような魚魚」とか「うまカモシカの足のようなカモシカの足」とは決して言わない。

例えばそれは暑い雪夏の日の午後。いたるところからセミの鳴き声が聞こえる。人々はこう言うだろう。「セミの嵐だな」と。ところがこれを台風に例える人は少ない。

例えば気象庁3時午後3時発表。「13号、14号、15号とまとまって日本に向かっています」「おぅ、台風の嵐だな」台風自体が嵐なのだからひとたまりもない。

例えばそれはインドにありがちだ。カレーの鍋に銀蝿が沢山飛び交っている。「おぅ、銀蝿の嵐だな」。こうなると「あらし」と言わずに「らん」と言ってしまった者勝ちだ。

例えば♪音楽。今時そんな例えはないが、激しいリズムの音楽に人々は誰もが踊りくねりながらも「随分パンチパンチの効いたロックだな」と言っただろう。おそらく70年代にはそんな例えをしたのではないか。

ところがこれをボクシングに例える人は少ない。「パンチパンチの効いたパンチパンチですねぇ」・・・当たり前だ。「パンチパンチの効いたキックですね驚き」・・・一体彼はどんな体勢なんだ。
2003/06/11 (水)
『敗北と死に至る道が生活』その297
私はこう見えても思いやりを大切にしている。部屋の壁にはばかにお洒落な思いやりが2、3枚飾ってあるくらいだし、もちろんライセンスも持っている。と言っても通信教育の方だが。思いやり初段ともなれば、時には「自分のことなんかどーだっていい」とさえ思うのだ。

電車で腹が立っている妊婦がいれば、席を譲るどころか、代わりに産んでさしあげるし、信号を渡ろうとしている老婆が入れ歯だったら、手を引いて渡るどころか代わりに渡ってあげるようなありさまだ。我ながらなんていい人なんだろう。

日本で一番思いやりがあるのは誰に聞くまでもなく私なのだ。先日もたまたま通りすがった家が火事だった。私は迷わず火の立場を考えて急遽ふいごを作ってしまった。時にはミュータンス菌の立場まで考えて、歯を磨かない日々だ。彼らは酸素が嫌いだと聞けば呼吸を止めてみたりもする。少し苦しいが俺が苦しめば彼らがハッピーなのならそれでいい。おかげで歯医者まで商売繁盛だ。思いやりが服を着て歩いているようなもんだ。

私以外の人が幸せならばそれでいい。平和だ。如実にそう思う。

2003/06/12 (木)
『敗北と死に至る道が生活』その298
携帯電話の文字入力はとても苦手だ。だからなるべく「あ段」を使うように心がけている。「あ段」だけでこんなメールを書いてみた

「笠原は柔らかな頭だが刀が逆さまだ」

「さわらはあからさまな魚だ」

唯一の欠点はそんな内容のメールを送る機会がないのだ。誰にも内緒だが、事によると「お段」まで駆使すれば様々な表現が出来るのではないかと睨んでいる日々だ。
2003/06/13 (金)
『敗北と死に至る道が生活』その299
CDCDが普及してまだ20年経ってないくらいかもしれない。今やCDは音楽のみならず、ゲームやパソコンのメディアにまで成り下がって家庭でCDが焼ける時代になってしまった。草加せんべいじゃないんだから。って言っても草加煎餅が家で焼ける訳でもなく、なんとなく虚しいのも事実だ冷や汗

昨日はCDを整理していた。音楽CDも気が付けば沢山ある。沢山ありすぎると聞きたいCDがどこにあるのか分からず、面倒くさいから買ってきてしまう。そうすると更に探しにくくなり、また買ってくるので同じCDが3枚くらいある。CDプレイヤーも3台あるので便利だ。こうなるとCDが200枚あったらCDプレイヤーも200台あれば便利だ。

部屋にあるCDを真ん中に集め、ABC順に並べてみた。AはAC/DCから始まって驚くべき事にZが無い。YのYngwieで終わっている。Zで始まるアーティストが居ないのかと思えば「ZZトップ」がいる。AもAC/DCより前にABBAが居る。俺のコレクションはなんて中途半端なんだろう。

何故かMとRが多い。理由を考えていたがそんなものに理由などある訳もなく、そんなことより生きているのだろうか。森繁は。「私より先に逝ってしまって・・・」彼はこれが口癖だ。
2003/06/14 (土)
『敗北と死に至る道が生活』その300
会社に行ってメールをチェックしたら不思議なメールが来ていた。

> 対応をありがとうございます。
> 以下乱筆でスミマセン。

メールで「乱筆」を謝っている。一体どうしたというのだろう。読み進めていくうちにフォントのサイズが変わっていく。確かに「乱筆」だ。しかし、お遊びのメールではない。きちんとした仕事のお礼及び今後の作業についてのメールだ。笑っていいのかなんなのか分からなくなった。アメリカからのメールだから分かりづらいアメリカン・ジョークなのかもしれないということで納得するしかなかったのだ。
2003/06/15 (日)
『敗北と死に至る道が生活』その301
私は自分で言うのも何だが他人に言われるともっとむかつくので自分で言うが、かなりの面倒くさがりだ。朝起きて歯を磨かないと歯医者に通わなくてはならないので面倒だ。だから起きたら毎日歯を磨いている。

身体がなまって更年期障害にでもなったら面倒なので、毎日6:30のラジヲ体操をかかさず実行している。もっともテレビでやっているラジヲ体操なのでなにがなんだか分からないのだが。朝食を抜くと身体に面倒なので、毎朝あじの干物と卵で米を食っている。

会社に行かないといろいろ面倒な手続きが必要なので、毎日会社に行く。それどころか遅刻したら言い訳が面倒なので、定時30分前に会社に行く。面倒なので蛍光灯さえもついていない状態で一人新聞を読んでいる。

仕事をさぼっていたら仕事がたまってしまい、後々かなり面倒なことになるので地道にこつこつと仕事をこなしている。

昼飯も本当は面倒なのだが、食べないと3時ぐらいに腹が減ってしまい、みんなが仕事をしているのにひとりでポッキー喰っているのを悟られないように努力するのが面倒なので、昼飯の時間に昼飯を食べるように心がけている。

残業などしたら経理のおねぇちゃんが面倒だろうから、定時に帰ってくる。洗濯物を貯めたら面倒なので、2日おきに洗濯をする。Gパンの色落ちなどしたら面倒なので、きちんとYシャツとGパンは分けて洗っている。

夕飯も外に行くのが面倒なので自炊している。牛乳を飲んだコップなどは後で洗うと面倒なので、飲んだらどんなに疲れていてもすぐ洗うようにしている。

面倒くさがり屋にもほどがあるだろう。こんなことではいけない。
2003/06/16 (月)
『敗北と死に至る道が生活』その302
年を取るとバラエティを見るのが辛くなってくる。若手芸人のつまらなさはある意味罪だ。職業としている以上面白くなければだめだという自覚が全くない。「もういい、帰れ!」など、松本人志の芸風を真似てみたりしているバカが多すぎるのだ。「もういい、帰れ!」はそれなりの名声を手に入れたものでなければ使ってはいけないセリフだ。「お前が帰れ」。

「老いをどう生きるか」っつう番組を見ていた。NHK教育テレビ。ジャズミュージシャンの坂田明は22年目にしてやっと自分の思い通りの音が出せるようになったと言う。これは凄いことだ。頭で描く音は究極の理想音だ。それが出せるということは、そうとう理想が落ちているか、実力があがったかのいずれかだ。22年もかかる。老人力なのだろうか。
2003/06/17 (火)
『敗北と死に至る道が生活』その303
LIVE CD と DVD が出た。レッド・ツェッペリン。30年前。30年前に既にああいうことを終わらせていた、というのはどういうことだ。その後ソロになった本人たちも含めて誰も追随出来なかったのは、偏(ひとえ)にドラムのジョン・ボーナムのせいか。

私は高校生のころディープ・パープル派だった。ツェッペリンに比べてはるかに分かりやすいロックをやっていた。未だにディープ・パープルもいいと思うが、年を重ねるにつれツェッペリンの音というものは、もう誰も演奏出来ないのだな。とつくづく思う。

ズレているのである。ドラムとギターとベースが。ズレているとしか言いようがないくらい変拍子の違和感がピークに達したときに一気にリズムが一致し、ロバート・プラントの楽器のような叫びが被さる。ある意味卑怯だ。『Rock'n Roll』 のイントロのドラムなんか誰が叩けるか。よしんば叩けたとしてもギターはどこから入ればいいのだ。裏の裏から入るから本当は表のはずだが、いきなり窓から侵入されたようなそんな気分だ。

そういえばミヤジもズラす。
2003/06/18 (水)
『敗北と死に至る道が生活』その304
野音まで壱カ月ちょっと。今年の野音は久々の単独ライブということで非常に期待している。最近は新曲モード全開なので『今宵の月のように』『孤独な旅人』『風に吹かれて』といった情緒的な曲が聞かれなくなり、そろそろやってくれないかと思う。神戸では『四月の風』をやったらしい。みやじ本当に好きなんだな『四月の風』。そうは言っても最近は頭の中で『生命賛歌』が鳴りっ放しだ。とんでもない名曲が誕生したもんだ。

『花男』『待つ男』『浮雲男』『珍奇男』『ドビッシャー男』『かけだす男』男シリーズ全部やったらいいさ。あぁやったらいい。名曲いっぱい。ニッポン暮らし。意表をついて『東京ジェラシー』もありだな。5時間ほどやって欲しい。

あ゛ー。野音で聴きたい曲受付中

2003/06/19 (木)
『敗北と死に至る道が生活』その305
カップ麺のきつねうどんと言えば「赤いきつね」を誰もが思い浮かべる。だが、カップ麺の焼きそばと言えば「ペヤング」を思い浮かべるのはどうやら関東地方だけのようだ。「ペヤング」は関東標準なのかもしれない。「ペヤング」を知らずに某UFOあたりで満足している地方の方々は東京にきて「ペヤング」を食べてご覧なさい。まぁせっかく東京にきてカップ麺喰うこともないか。ところでBOSSの缶コーヒーを飲むたびに「マンセルは今頃どうしてるのかな」と思うのは私だけだろうか。私だけだろうな。
2003/06/20 (金)
『敗北と死に至る道が生活』その306
今日は一日中テレビを見ていた。犬がいる。犬が蓄音機を聴いているらしい。格好いいよなぁ。このRがたまんないよなぁ。色もいい。薄いグレーだ。ちょっと横長だし。ビクターのテレビは格好いいなぁ。今日は一日中ビクターのテレビを見ていた。
2003/06/21 (土)
『敗北と死に至る道が生活』その307
今ベッドが欲しい。しかしながらこの狭い部屋。そんな物を置いたら寝る場所が無くなってしまう。悩ましき浮世。


食べ方にこだわる人がいる。と言っても箸の持ち方とか、テレビを消せとか、膝は立てるなとか、もう頬杖はつかないとか、月はどっちに出てるとかいう問題ではない。食べ物も口に入れる向きによって損得があるらしいのだ。

例えば「鮨」。 ネタの方に醤油をつけたいという人は多いだろう。だから逆さまにして醤油皿につける。逆さまにするのだからやっぱり箸より手で食べた方がよろしかろう。問題はこの後だ。みなさんはネタが上でシャリの方を下にして口に入れるだろう。これだと味覚を味わう舌の部分にはシャリがあって、せっかくのネタの味を100%味わえていない。

他のネタを食べる場合も結局真っ先に「シャリ」を味わっているに過ぎない。ネタなんかどーだっていい!!と言っているようなもんだ。本当の通は口に入れるときも逆さまに入れるのだ。醤油を付けるときも逆さま、口に入れるときも逆さま。となれば「鮨職人が初めから逆さまに握ってくれればいいのに」と誰もが思うだろう。

という話をKさんと雑談していたら、彼は「ハンバーガーもそうだ」という。下のパンは土台だからどうでもいい。上のパンはゴマかなんか付いてていかにもうまそうだ。だから上を下にして口に入れる。

そう考えると殆どの食べ物が、おいしそうに見えるところは全て上になっている。我々はこの事実をふまえて、おいしいものを食べたいなら逆立ちして生きていかなければならない。町で逆立ちしている人を見たら「お、本当のグルメなんだな」と思わざるを得ないのだ。
2003/06/22 (日)
『敗北と死に至る道が生活』その308
「探し物」と言えば井上陽水の「夢の中へ」だ。

探し物は何ですか?
見つけにくいものですか?
カバンの中もつくえの中も
探したけれど見つからないのに
まだまだ探す気ですか?
そろそろ僕と踊りませんか?
夢の中へ夢の中へ
行ってみたいと思いませんか?

ってな具合に麻薬捜査官が彼の部屋を捜索中に歌っていたらしい。捜査官は陽水が「絶対クロ」だと確信したのだ。
2003/06/23 (月)
『敗北と死に至る道が生活』その309
吉野家で「並、汗だくで!」なんて言って本当に出てきたら君はどうする。

「昔の侍」について考えていた。国家と個人。国家なんて言うと難しいから「家族」と置き換える。日本の現状を鑑みるに家族すら崩壊している。ともなれば国家など成り立っている訳がない。個人を捨ててまで国家を愛しているか?「昔の侍」は「自ら命を絶つことで自らを生かす道を知っていた」最初の「自ら」は個人であるが次の「自ら」は国家である。自分が死んでいるのにも関わらず脈々と流れ続ける精神。日本はそういういい国だった。

我々日本人。武士道精神に乗っ取った日本の姿を懐かしんでも、西洋文明を受け入れた結果滅び行く運命。文明社会を否定しようものなら生きていけない。個人が生きていくためには国家が犠牲となる現代社会。国家が生きていくためには個人が犠牲になった過去。どっちがいいかと問われれば「俺たちが生きている生ぬるいエセ平和」と答えてしまう情けない自分がいる。

愛する人、愛するものを守るため自らが犠牲となる。少なくとも自分の命など微塵の価値もないと思って生きている。

「バトルロワイヤル」という制度まで行けば理想的なのだろうが、残念ながら殺し合いは「悪」だという。日本は壊れてしまっているのだから今時殺し合いが「悪」だなんて理想論でしかない。医者が故意に患者を殺したり、万引き犯を追いかけた店長が殺されたりしているこの社会にもはや「善」などありはしない。世の中「偽善」で満ちあふれている。

国家を愛する平和な形が凄くいびつな形で表現されたのが「特攻隊」なのだ。戦争とは極端に言えば平和を愛する究極の形だ。そういう視線で「バトルロワイヤル」をとらえられない奴等が多すぎるのだ。だから「15歳以下は見られない」はかなり間違っているだろう。正しくは「100歳以下は見られない」のだ。

まぁ誰にも理解されない世界みたいなものをみんな持っている筈だ。
2003/06/24 (火)
『敗北と死に至る道が生活』その310
鏡に映った顔は自分の顔ではない。もう一回反転させて他人が見た本当の顔になる。

最近のヘビーローテーションは椎名林檎の『映日紅(イチジク)の花』。ほどよく癒し系。賣笑エクスタシーのDVDDVDに入っているのとシングルのPVは映像が違う。賣笑エクスタシーの方はホクロの位置が違う。反転している。反転しても椎名林檎だ。椎名林檎自身はこの反転した状態を見慣れているのだろう。シングルのPVの方はレンズにずーっとゴミがついている。うちのテレビが汚れたのかと思ったが違った。最後の方で子供の頃のホクロに重なる。そして消える。『映日紅の花』は椎名林檎作曲ではないにも関わらず椎名林檎的だ。

野音のチケットチケットが届いた。ココ座席表を見てみると意外と後ろの席で一安心。私は背が高いのであんまり前だと申し訳ない。

『生命賛歌』のPVを見た。狼だけか。最後のほうは目が疲れる。私の語彙には『ひょうろく玉』というのはなかった。どこから出てきたのだろうか。

『恐らくは日本人と呼ばれる以前の死に絶えし人々の祈り有りて』。私もよく昔の人々について想いをめぐらす。文明が過渡期だった頃の人生とは何だったのだろうか。いまのチンパンジーにとって生きるとは何なんだろうか。生命は子孫を残すことに必死だが繁栄して何の意味があるのだろうか。最終目的は何なのだろうか。

私はある程度文明が発達した時代に生まれて本当に幸せだ。便利さと、それが失われた時の不便さを比べると不便のほうが大きく感じる。本来、便利の方にもっと重みを感じなければいけない。我々はこの世の中にもっと感謝すべきだ。最終目的なんかどうだっていい。生きる過程が楽しければそれでよし。
2003/06/25 (水)
『敗北と死に至る道が生活』その311
今日午後4時にチケットチケットぴあに電話電話したら意外にすぐつながったので、これはGETできたかと思ったが、9月5日の先行予約分は予定枚数を終了したと言われた。ためしに9月4日を入力したら枚数を聞かれた。9月4日なら取れたみたいだ。しかし9月4日はPAOの先行発売に申し込んである。しかたなく電話を切った。

もしかして9月4日をPAOで取って、5日をぴあにした人が多かったのか?逆パターンにしておけばよかったか。まだ一般発売が残っているが。あてにならん。

ところで、あなたの部屋には『CD普通の日々』が未開封で3枚以上あるだろうか。そういう人は結構います。

ところでなぜ。なぜCD3枚同時発売なのだろう。しかもカップリングは全て『ろくでなし』。しかもアルバムには全曲収録される。もう1曲づつライブ音源かなんか入れて1万円で売った方が買う気も起こるというものだ。中途半端な発売形態は事務所の意向か。

シングルを3枚買う意味は?私は管理人だから資料として仕方なく買うが、あまり意味ない。物体として持ってはおくがおそらくアルバムが発売されたら二度と手を触れることもないだろう。単なるオブジェか。事務所の小銭稼ぎか。制作費の方がかかるのではないか。こんなに質の高いバンドが売れないとは一体どうなっているのだ。我々には21世紀のこの東京に宮本浩次が必要だ。

どーせ売れないのに更に買う気を失わせてすみませんでした。
2003/06/26 (木)
『敗北と死に至る道が生活』その312
CD買ってきた。色はケースの色であって、全部白黒。エレカシだからな。風呂で聞いてたら音が飛ぶ。CCCDって奴はわざとエラー信号入れてるからだめだ。だめだだめだ。許さない。欠陥品のくせに補償しませんときた。『ろくでなし』が結構染みる。
2003/06/27 (金)
『敗北と死に至る道が生活』その313
CDCDCDCD3枚キャンセルしたというメールメールを頂いた。私の意見で人生を左右してしまったようで申し訳ない。しかし前回も書いた通り


  • 全曲アルバムに収録される。
  • 3枚を架け替えて聞くのは不便
  • カップリングが全て同じ
  • CCCDなので表向きはパソコンに取り込めない。

という具合であまりメリットはない。強いて挙げれば


  • アルバム発売1ヶ月前から4曲だけは聞ける。
  • 3枚+アルバムの応募券で当たればサイン入りの何かをくれるらしい。


ということで1ヶ月たてばメリットはなくなるし、どうせ当たらない何かはきっと外れる。
メリットなどひとつもない。

お金は大切だ。CDの売上が落ちたのはパソコンに取り込まれるせいだと言うが、CCCDになって買わなくなった人が逆に増えているのではないだろうか。

CCCDは理論的には普通のCDにならないが物理的には可能だ。デジタル処理を超アナログ的にプロテクト解除させる方法はダミーデータを読ませないようにセロテープを1枚貼ることだが、テープだと経年劣化でガビガビになるだろう。テープ以外にどうにかならないかと試行錯誤中。

ヒント

  • CDは内側から外側に向かって録音されている。(アナログレコードとは逆)
  • 放射状の傷には強い。
  • 同心円状の傷には弱い。
  • CCCDはありえないデータを書き込み、読み取りエラーを発生させている。
  • パソコンは正確にデータを読もうとするからコピー出来ない。
  • オーディオ機器は多少の傷があってもそこにあるべきデータを予測して再生するから音が出る。例えばレベル100と90の間のデータが読めなかった場合は『95だろう』という処理が走る。いかしてる。


さぁみんなで考えよう。
2003/06/28 (土)
『敗北と死に至る道が生活』その314
買ってきた商品が欠陥品だった場合返品するだろう。私の場合は自分で直してみることにした。メーカーに文句ひとつ言わず自力で直すのだからメーカーから感謝されてもいいくらいだ。

欠陥品CCCDにマジックで線を引いてみた。


記録面をよく見ると3ミリ程度の幅のすじが見える。そのすじの外側ぎりぎりにかすめるように線を引く。これより外側を読ませなくするためだ。

スジを強調してみるとこんな感じだ。


パソコンに入れてみた。


Explorer で CD ドライブを参照するとこんなエラーが出た。しかしメディアプレイヤーからはオーディオCDとして認識されている。


この状態で再生すると、1曲目も2曲目も頭から9秒~12秒の間音が消える。
wma や mp3 に変換するとすべては正常に変換される。

CDを何回か出し入れするとオーディオCDとして認識される場合とエラーになる場合がある。




入れられたCDがデータCDなのかオーディオCDなのか認識出来ずにドライブが悩んでいる気配も漂う。
なかなか認識しない場合はCDを入れたまま再起動すると高い確率でオーディオCDと認識された。

普通のコンポで再生してみた。何の問題もなく再生出来る。直った。

まぁ普通は線の場所にセロテープ貼るんだけど。普通って冷や汗・・・
2003/06/29 (日)
『敗北と死に至る道が生活』その315
野音の席・・・意外にランダムだ。という感想ですがどうでしょうか。

関係ないですけど、新しい電池と古い電池を混ぜてしまったという経験は無いだろうか。無い人も聞いて欲しい。元電気屋が教えてやろうと言うのだから、ありがたいと思え。自分に興味が無い話題だからといって読み飛ばすとは何事だ。私も今度から興味が無い話題は書き飛ばすことにする。新しい電池と古い電池を混ぜてしまったなんていう話には興味がないことこの上ない。全部捨てて新しいのを買ってくればいいのだ。でも貧乏な諸君のためにひとつだけ教えてあげよう。

よく回る方がゆでたまごだ。
2003/06/30 (月)
『敗北と死に至る道が生活』その316
煎餅煎餅を食べて口の中でどういうわけか縦になったところを次のひと噛みで思いっきり上あごに突き刺さったという経験はない。

社会主義社会がいきなり自由資本主義社会になるのはかなり危険だということだ。堕落への道が急であるほど世代間ギャップが激しくなる。世代間ギャップが激しくなると社会の先輩が後輩に指導したらいきなり刺されるような社会である。

極めて重大な問題なのだが誰もが事なかれ主義であるのも事実だ。注意した正義の側が殺され、注意されるようなロクでもない連中の方が生き残ってしまうのである。そして裁判では極刑にもならず、のほほんと暮らす。となると朝鮮半島統一にしても、『その後』がかなり危険だということだ。鬱屈したコンプレックスを一気に解消する恐れがある。世界中がスローライフ、つまり縄文時代からやり直した方がいいだろう。今回のt.A.T.u.ドタキャン事件でそんなことを思った。
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