『敗北と死に至る道が生活』その109
海をみていた。両親がじっと海をみていた。高度経済成長の時代に親父はひたむきに働いていた。石灰を作る会社だった。夜勤なんてのもあって、朝、全身真っ白で帰ってくることもあった。父は恐らく遊びらしい遊びはしていなかったと思う。
母も働いていた。それでも決して裕福ではなかった。お金がなかったという意味ではない。真面目にコツコツと貯金もしていただろう。昔の暮らしなんてのは質素で、それでも日々に疑問など持たずに呑気に暮らせていたのだ。遊びに行くと言ったところで、せいぜい谷津遊園か船橋ヘルスセンターか潮干狩りに行く程度で、「町まで買い物に行く」だけで少し興奮気味だった。家族で泊まりの旅行なんてしたことがなかった。
勤めていた会社が規模を縮小し、親父は解雇されてしまった。それを機に同じ船橋市内で新築のマイホームを手に入れた。子供部屋を与えられた。小学生高学年の頃だ。それまでは2部屋しかなかった会社の寮の長屋だった。
一人で部屋にいるということに馴れていなかった私は、寝るときしか部屋にいなかった気がする。昭和40年代の家庭なんてのは、一緒に食事をして、テレビをみながら果物でも食べるのが一般的だった。そこには少なくとも家族があった。核家族だったが。
私は成長し、中学生の頃には誰しもが経験するようにちょっとばかりの反抗期があり、両親が嫌いだった。何が不満だとか、そんなのは分からないがとにかく親と離れて距離感をおくことが格好いいみたいな、よく分からない理屈だったろう。別に悪いことではないと思う。こういう勘違いの過渡期というものを過ごすという行為は決して無駄ではない。もし私に子供がいて、少しばかりの反抗期になったら
大人になる前兆だと喜ぶかもしれない。
男30を超えたりすれば、親孝行なんていう行為が何の照れもなく実行できてしまう。それは両親の兄弟が何人か死に始めたときだ。今は元気に両親とも健在だが、いつ逝ってしまうか分からないのだ、ということが親戚の死で改めて思い知らされた。
毎年秋には旅行に連れていくことにした。私はもう充分好き勝手に生きてきたのだ。所謂(いわゆる)「親孝行」をしてみるのも悪くない。生きているうちに、いろいろな所を見せてあげたい。それは私を産んでくれ、育ててくれ、だまってサイフから1000円抜いても気が付かないフリをしてくれていた両親への感謝の気持ちだ。
何年か前、房総半島の南端・鴨川に連れて行った。千葉県に住みながら千葉県を知らないと言っていたからだ。そんな小さい旅で満足出来るのが逆にうらやましかった。私にとっては鴨川なんてのは散歩の範囲だが、両親と行く鴨川は立派な観光地で、一人では絶対に入らないような鴨川シーワールドかなんか行って、シャチのショーに私が一番楽しんでいたのかもしれない。両親は古いタイプの人なので、カメラを向けると、昔の人らしく固まってしまう。かと言って踊られでもしたらもっと困るのだが。
夕陽が沈み始めた。
紫色の空の下、両親は手すりにもたれ、立ったまま海をみていた。時折横切る漁船くらいしか見るようなものは無い房総の海だった。両親は何も話さず、ただただ海をみていた。気が済むまで見たらいい。海をじっと見るなんて本当に久しぶりだったに違いない。
ただじっと海を見る両親。それを後ろでベンチに座り、じっと見ている私。両親が何を思っていたのか、何を考えていたのか私には分からない。全盛期より少し小さくなった父の背中と、母のもの凄く小さい肩を見ていた。両親はまだ海をみつめていた。