『敗北と死に至る道が生活』その328
味覚にはさまざまあると思うが、基本的には「甘い」「しょっぱい」「酸っぱい」「辛い」「苦い」だろうか。そんな中「無味」というのもあって、あれは味と言えるのだろうか。例えば「水」だ。のどが渇いた時に1杯の水はまことにおいしいのだ。「おいしい」と思うのだから無味も味わうことが出来ている。味覚の最高峰は「甘い」と言えなくもない。現に中近東諸国のお茶はどうやら甘いらしい。砂糖をたっぷり利かせた甘いお茶。ブラックコーヒーなんて男っぽいけど、あまりおいしくはない。苦いだけだ。考えてみれば「苦い」と「酸っぱい」は本来危険を察知させる為の味であって食べるような代物でない。「酸っぱい」には「腐敗」の意味があり、「苦い」には「毒」の意味がある。だが人はそれを食べてみて体に影響が無いことを知ると「味わい」として認識出来るようになる。
蕗(ふき)がほろ苦くておいしいなんて思うのも不思議なことかもしれない。そんな味を発展させれば「まずい」という味覚があってもおかしくはないと思う。この発想は数年前ダウンタウンが実際に「まずい水」をampmで販売したことにも見られるように正しい。
そんな話も忘れかけた今宵。別役実の本を読んでいたらこんなことが書かれていた。題は「トウガラシ」だ。
南米原産のトウガラシはコロンブスによってスペインに持ち込まれた。当然ながら我々の抱く最初の疑問は、何故こんなものをコロンブスはスペインに持ち込んだのであろうかというものである。(中略)つまりコロンブスは当時のスペインの飽食した人々の味覚に罰を与えようとしたのだ。航海中に自分たちが「不味いもの」しか食べていなかったにもかかわらず、スペインでのうのうと暮らしていた人々が美味しいものばかり食べているのを見て「これでも喰らえ」とばかりに、口の中にねじこんでやったというのも大いに考えられるだろう。 |
「辛い」なんていうのは舌に言わせれば「痛い」に他ならない。物理的には栗を「いが」のまま食べるとか、かみそりの刃を縦に食べるとか、しまいには自分の舌を「タン」として食べるとか、そういう時代がくるかもしれない。笑い事ではなく、現代人は自分の胃を消化してみたりしている。こうして味覚はどんどん進化してゆく。