『敗北と死に至る道が生活』その448
バイク乗りがバイクに乗るのは解放という名の自由を手に入れたいのと同時に、強烈に自己を感じたいからだと思う。「生きてる」って何なんだろうと考えたときに、「日常」というものはあまりにもインパクトがなさすぎる。と私は思ってしまうのだ。だが逆に、「日常」で「生きてる」って感じられる人がうらやましくもあり、それが出来れば旅などしている場合じゃないのも分かる。そうありたいと思えばそういう道を歩んでもそれはそれで自由だ。それぞれの人生は自分で選んだ分岐点という要素以外に「偶然」という要素が加わって、それを納得して生きていけるかどうか。「願わくば妥協してみたい」なんていう甘えが許されるならそれも素敵なことだろう。
だが、納得できなければ道を外れてしまえばいい。たとえそれが砂利道であろうと、獣道であろうと、行き止まりであろうと。高速道路を走っている人に笑われるかも知れない。殆どのライダーは「高速道路」が嫌いである。単調な直線、緩やかなカーブ、決められた道、合理的ではあるが面白みなど全くない。遅くてもいい、たどり着けなくてもいい、ただ「生きてる」という実感だけを求めてバイク乗りは今日もヘルメットの下で「お前ら、高速道路なんか走ってて楽しいのか?」と、ほくそ笑みながら走る。
そんなこじつけのような理由すら要らないのかも知れない。バイク乗りがバイクに乗るのはそこにバイクがあるからか。自由を手に入れる武器があるからか。支えていないと倒れてしまうけれども、走り出したら止まらないバイクに自分を見て切ないフリをしてみせる。そして私達は刹那的に走り続ける。実際は、走り続けなければ倒れてしまうことを恐れているのだ。