『敗北と死に至る道が生活』その667
実家にはひと月に一度は帰るようにしている。帰ったところで何を話す訳でもない。話すようなことがないほどに平和だ。千葉県船橋市という中途半端な位置にある。体育会系の市立船橋高校でご存知だろうか。昔は船橋ヘルスセンターというレジャー施設が有名だったが今はない。そうだ中央競馬の中山競馬場がある。中山競馬場という名前は有名だが船橋市にあることはギャンブラーにとってはどうでもいいことなのかもしれない。今は入場料を取るのだが、私が子供の頃は柵のところまで普通に入っていけた。レース中に万が一誰かが入るなどというハプニングは想定されていなかった。平和だった。多分3、4歳だったと思う。馬番など分からない私は父に「次何がくる」と聞かれ「赤がくる」と答え、適当な割には当たっていたと聞かされている。赤とは枠順で決められて騎手が被る帽子の色のことだ。
冬は霜柱が降り、夏でも30度を越すことはめったに無かった。家には足踏み式のミシンがあり、黒電話が始めて設置されたときを覚えている。テレビには実際の画面サイズより大きく見えるという妙なプラスティックの板がはめられていた。それで父親はプロレスと相撲を見ていた。私は寺内貫太郎一家を見ていた。ちゃぶ台ひっくり返してばかりでストーリーが思い出せない。
昭和という時代は過ごしやすかったな。クーラーなんかなかった。クーラーの室外機が増えたせいで暑くなりみんなクーラーを入れ始めたのだ。
どうでもいい話だが私の名前は昭和の昭から1文字もらった。『昭和に生まれたから』という理由だった。そんなこと言ったらみんな昭和じゃないかと思ったものだ。平成がくるなんて思いもしなかった。