『敗北と死に至る道が生活』その1746
明日、実家に帰る。子供の頃から育った場所だが典型的な住宅街なので特に思い入れも無く、地元に帰っても会うような友人も無く。東京と違って駐車場がことごとく無料な、ホームセンターがあって郊外特有の本屋とゲーム屋とドラッグストアその他もろもろが集中している区画に行くわけでもなく。何をするでもなく。死ぬ前に一度会っておきたかったと後悔するほどに両親も弱ってはいなく。母とは少し話すが父とは話さないことが多い。顔見せ程度の小旅行。実家に帰ると必ずキティちゃん1匹分程度のリンゴを持たされるのだが、あれは一体何なのだろう。鮮度がいまいちなので捨ててしまうが。持って帰ってから。捨ててるなんて知らないんだろうが。要らないよとむげに断らないところが大人だ。大人にリンゴをくれる。母と息子の関係はいつまでたっても母と息子の関係である。当たり前か。
母な人に子供がどうしたら親として嬉しいのか聞いたところ、子供が幸せな状態であれば嬉しいのだそうだ。逆に子供が不幸な状態だと親として悲しいと。私はてっきり『生んでくれてありがとう』などと言ったら喜ぶのではないかと思ったら、そんな白々しいことを言われたら困ってしまうとか。
だとすれば私は幸せな状態をアピールすればいいのだ。二週間後には沖縄へ行って、12月にはニューヨークに行く。天ぷら焼肉ピザパスタ。おいしいものを沢山食べているとアピールしてくればいいのか?
それにしても拉致被害者家族の皆さんは子供が不幸な状態を延々と来る日も来る日も心配しているわけで、親として悲しい状態が常態化してそれが人生となってしまっている。
他紙はどうか知らないが、最近のサンケイ新聞は拉致問題の解決にむけて政府をあおるような記事を沢山載せていて好感が持てる。新聞は新聞の出来ることをやる。私には何が出来るだろうか。自分の出来る範囲で何か出来ればいいが。