『敗北と死に至る道が生活』その2324
若い社員さんに何か教えるとき「ここ辞めても役に立つから」と一言添えると上司の社員さんが苦笑いする。そんな私は契約社員。厭味な人間だ。お釈迦様は、怒りは自分が正しいと思うから生まれ、人はそんなに完璧でないのだから、自分は正しくないと思えば怒らなくなると言うが、明らかに徳が低い人をどう納得すればいいのだろう。「明らかに徳が低い人」と見下している時点で私はダメなんだろう。電車の中で品のない話を大声でしている人をうるさいと思うが、お釈迦様はこの時どう思うのだろう。徳の高い人は殺されそうになっても怒りはないらしい。まだその気持ちは分からない。分かったところで死んでしまうのだ。”争いごとに費やす時間がもったいない”というところが落としどころだろうか。
ベクトルが上を向いているのならば、位置はあまり関係が無い。低い位置にいようが高い位置にいようが裏側にいようが意識のベクトルが上を向いていればそれでいいのかもしれない。などとくだらないことを考える時間がもったいない。
年をとって「まだ死にたくない」と思うか「もう死んでもいいや」と思うのとどちらが幸せなんだろう。親に聞いてみよう。