『敗北と死に至る道が生活』その3124
少々生々しい話題になりますが、将来参考になるかもしれないので、我が父が亡くなってからの経緯を書いておきます。享年81歳(行年82歳)。平均寿命をまっとうし、自宅にて逝ったので無念はなく安らかな死であった。前日の節分には豆も食べ、「意外に柔らかい」が最後の言葉だったらしい。
2013年2月4日 月曜日
普通に出勤しようとしていた矢先の出来事。
8:06 姉から電話。「お父さんが冷たくなってるって母から電話があった」
東京都品川区から千葉県船橋市の実家へ向かう。
救急車を呼んだと聞いたのでいったんかかりつけの総合病院へ寄る。
母の携帯に電話したら、救急車が来たが死亡しているので運ばず警察を呼ばれたそうで、実家に向かう。
10:00 実家に着いたら玄関が靴だらけ。
刑事が10人くらいいて、父の姿を見るまもなく二階で事情聴取となった。
部屋の間取り、保険証書、現金、各種通帳をデジカメで撮影されまくり。
名前、生年月日、続柄、最後に来たのはいつ?など。あとで知ったが近所にも聞き込みしていた。
警察指定の医者が死因検証しに来た。
10:53 このあとどうしたらいいか分からないので母が軽い気持ちで切り抜いていた葬儀屋に私が電話した。
事情を説明したら死亡検案書が無いとなにも出来ないとのこと。
刑事と医者が退散。
刑事は近所の葬儀屋一覧のコピーを置いていった。警察がそこまでするんだと思った。
近くの親戚2人来る。
父の横で医者の死亡検案書待ち。
事件性が無い事が証明されるまではドライアイスは入れられないとのことで、暖房もつけずに親戚と話していた。
実質のお通夜みたいなものだった。
待っている間、葬儀費用として父の通帳から100万円引き出す。
15:00 医者の死亡検案書を取りに指定された病院へ、警察署の刑事課へ行ってコピーを渡す
死亡検案書で52,500円取られる。
持病は脳梗塞の後遺症と糖尿だったが、死因は急性心筋梗塞、原因は不詳ということだった。
死亡推定時刻 5:00 。自宅で寝ている間にぽっくり逝ってしまったので本当に見事な散り際だった。
1月には玄関の階段のフチの部分に白いペンキを塗ったり、柿ノ木の枝を切ったり体の全部使い尽くして死んだようだ。
親戚一同も「いい死に方だ。私もこう死にたい」と言っていた。
漠然とした覚悟はしていたので私も割りと冷静ではあったが、時折波のような悲しみが来る。
そう言えば「漠然とした覚悟はしていた」と刑事に言ったら「それはどういうことですか?」と聞かれた。疑われているようだった。
16:00 船橋市役所の出張所へ死亡届 火葬場が決まってないと出せないというので葬儀屋へ確認電話。
そしたら普通は死亡検案書受理から死亡届出までは葬儀屋の仕事らしい。聞いてない。
17:00 を過ぎたので市営斎場の予約がとれないから葬儀屋は明日また打ち合わせにくる。
葬儀屋は埋葬許可証を持っていった。実家が天台宗だと初めて自覚した。
2013/2/5(火)
9:30 葬儀屋が来て打ち合わせ
二月の死亡件数が一番多いらしく火葬場が一週間待ち。
2/12 通夜 2/13 告別式と決まった。一週間間が空くので一旦日常生活に戻って下さいと言うので、水木金と普通に出勤することにした。
1日50体焼くとのことで、人口減を目の当たりにした感じだ。
実家は一軒家だが、この玄関のつくりだと御棺が出せないと言われた。
入れるときは縦横どうにでもなるが、遺体を入れたら寝た状態でしか出せないと。そりゃそうだ。
遺体はいったん葬儀屋の霊暗所へ置いてもらうことにした。布製のストレッチャーで運ぶので玄関から出せた。
葬儀屋がつまづかないように自分で階段のフチの部分に白いペンキを塗ったんだろうか。綺麗な死に様だ。
住居用マンションのエレベーターの奥側に謎のふたがあるが、あれは御棺用の奥行きだ。
私は役所、保険、年金、郵便局、銀行などの手続きに奔走した。手続き系なんか言われた通りの物をそろえればいいが、通夜に何人来るか、そのうち宿泊するのは何人か?食事をどの程度用意するか?アバウト系は姉が全部やってくれて本当に助かった。大してつきあいもない親戚に連絡をするのは「御霊前を頂きたい」と言う様なものなのだし、かと言って連絡も無かったと言われるのもあってやりにくい面もあったろう。父の兄弟も高齢なので群馬からは来られないということだった。群馬の片田舎から東京を経由して船橋まで出てくるのは我々の感覚で言うとヨーロッパ旅行に匹敵するくらいなものだろう。だとすれば仕方がないのだ。
「死んだら金融機関は凍結される」というよく耳にする噂。銀行で事情を説明したら、向こうから「引き落とし口座に使われていますね。切り替えが済んでからでいいですよ」と言うので、「死亡の事実を知ったら止めるんじゃないですか?」と言ったら、「親族が書類を提出しない限り口座は止められません」と言ってくれた。「ずっと書類を出さなかったらずっと使えるんですか?」と聞いたらそうですと答えた。なんか噂と違って拍子抜けした。金融機関ごとに対応が異なるそうだが、新聞記事になるくらいの資産家でない限り金融機関は凍結されないそうだ。郵便局は今後どうしたらいいか聞きにいった直後から凍結された。言わなければ多分そのままだ。
死亡届の写しが必要とのことで、出張所へ行く。一辺にいろんなことをしているので、何のためにその書類が必要なのかよく分からなくなってくる。死亡届の写しを出すのに理由が必要とのことで、遺族年金の手続きと言ったら出してくれたが、保険会社にも必要かもと思って1通追加でと言ったら、民間の保険会社が理由では出せませんと断られた。民間の保険会社で何が必要なんですか?と言ったら知りませんと言われた。管轄外のことは一切触れない。当たり前か。保険会社に聞いたらそれのコピーでいいそうだ。ローソンのコピー機で死亡届の写しをスキャンしてUSBに入れておいた。USB持って行けばそこにPDFファイルとして保存出来る。父の本籍がある群馬県の役場のホームページに戸籍の郵送依頼書というPDFがあるのだが、それも一旦iPhoneにダウンロードすれば無線でローソンのコピー機で印刷まで出来た。パソコンは不要。すごい時代だ。
除籍が分かる謄本と言われたので、「除籍謄本」というチェック欄があったのでそれか?と思ったら「除籍謄本」というのは戸籍に載っている全員が死亡した状態の戸籍だそうで、母が残っているので「父の名前の戸籍謄本」を取り寄せれば「除籍が分かる戸籍謄本」になるそうだ。そんなことも知らない。住民票の世帯主は自動的に母になるが、戸籍は父が筆頭者のままだそうだ。
生まれてから全部の戸籍謄本が必要な場合もあるらしいので下手に戸籍を移動すると二度手間、三度手間になる。私の戸籍も代々木に移動してしまったが、もはやそこに住んでいないので、今後面倒なのかもしれない。かと言ってまた品川区に移動したら面倒が増えるだけなので一生代々木にしておこうか?最初から皇居の住所固定にしておく人の気持ちがわかった。だったら日本人全員皇居にしてしまえばいいんじゃないか。千代田区役所がてんてこまいか。
電気、ガス、水道、電話全て父の口座引き落としだったので全部母のに切り替える。それぞれ電話して変更用紙を送ってもらったが、銀行に行けば一括で変更出来ると聞いたので銀行でやった。なぜか船橋市は上水道と下水道の管理が異なるので下水だけ別の用紙だった。いちいち「お客様番号が分かりますか?」と聞かれたが、母は領収書をすぐ捨ててしまうので、さっぱり分からず苦労した。各種のお客様番号というのは一覧表にしておいたらいいだろう。あと、引き落としは生き残る確率の多い妻側の口座にしといた方がいいかも。
それにしても最後、家族に何の苦労もかけずに逝ってしまった。父の兄の時はやれ危篤だ、やれ安定したを繰り返して大変だったといとこから聞いた。見事な散りざまに天晴れだ。安らかにと祈る必要も無いくらい安らかな眠りについたお父さん。ありがとうございました。
2013/2/12(火)
待っている間に初七日も過ぎてしまった。夕方から御通夜。お経を上げてもらって夕食を振舞う。泊まる親戚とともに葬儀場の控え室で仮眠をとる。
2013/2/13(水)
朝から告別式。七日式というのも引き続きやったので、お焼香を2回やった。遺族代表で私が挨拶をした。途中から芝居がかって込み上げるような感じになってしまった。火葬する間昼食。90分ほどでお骨になった。立派な骨だった。崩れてしまうことが多いという喉仏が見事に残っていて仏が手を合わせている姿に見えた。骨壷にぎゅうぎゅうに詰め込まれて、私が骨壷、母が位牌、姉が写真を持って式が終わった。骨壷を持ったら「こんなに軽くなっちゃって」と思うんだろうと予想していたが、意外にずっしりきた。壷自体が重いんだろうか。私は挨拶の文言を覚えるのに必死で、姉は食事の数が心配でなんだかそわそわしているうちに終わった。あとは四十九日で一旦寺に納骨してゆっくりお墓のことを考えることになる。お布施30万含めて89万円。ご霊前はそれより若干だけ多くいただいた。お布施30万は葬儀屋の言いなりに払った。坊主がお布施の領収書を持ってきた。控除出来るらしい。
男が先に逝く方が絶対にいいのだ。
落ち着いたら母と姉を温泉にでも連れて行こうと思う。