『敗北と死に至る道が生活』その4060
私は猫ではない。名前も既にある。生まれた場所も明確だ。映画を見ていて「今のシーンは必要なんだろうか」と考え始めて内容が全く頭に入ってこなくなる。こうなると、そのシーンがひつようだったかどうかさえも分からなくなり寝てしまうのだ。「近所の人が庭で採った葡萄をもらって、意外とおいしかった」と母が言っていた。
そのことを説明するのに「隣にもあげていて、向かいの家にはやったかどうか知らないけど・・・」と言っていた。なぜ向かいの家の話を織り交ぜたんだろう。実家が田舎で10軒くらいしかない集落ならまだしも、船橋市の住宅街。ブロック単位に何百軒と家が連なっている。隣のことだってどうでもいいが、そこはいいとしても、向かいの家のしかも曖昧な情報をどういう思考回路を通ったらでてくるのか。伏線を張るような頭脳も持ち合わせていない。
私は会話をしているとき「その説明は要らないなぁ」とか「その大前提は先に言わないと」とか「結局オチがないのかよ」などと思ってしまう。以前これを公言したら誰も話してくれなくなって人生がすごく楽になった。が、今は言わないようにしている。言わないようにしている。みんなで行った修学旅行。修学旅行。
そのせいだろうか。妻の口癖は「もう一回同じことを言うと」だ。もう一回同じことを言うなら録音しておけばいいのに。