『敗北と死に至る道が生活』その2518
今年から毎朝 NHK教育テレビでやっているラジオ体操をしようと心に決めながら、6:25に目覚まし時計をセットしたはいいが、布団から抜け出せずテレビを見ながら心の中でラジオ体操をした。あの番組を観賞してどうする。そうだ番組を録画すればいいのだ。そしたら自分が起きたなりの時間に出来る。録画には成功した。第一か第二が変わる程度だとすれば一度録画したものを毎日やれば十分だ。時間が無ければ2倍速でやればいい。しかし。。。録画していつでも出来ると思うと安心して寝てしまう。朝からテレビのスィッチは入れるが朝からビデオを起動するような習慣はなく、結局やらずじまい。「ハードディスクレコーダーはぱっと起動しないからなぁ」などという言い訳を口実にぱっと起動しないのは自分自身だったりする。
「夜帰ってからやればいい」と思うが夜にラジオ体操など誰がやろうと思うだろう。窓を開け放ち朝日を浴び、少々冷たい新鮮な空気を吸い込んでこそのラジオ体操である。なんなら「やっほー」程度の言葉を発したいくらいだ。
「録画していつでも見られる安心感」で見ていない映画が沢山ある。「買ったからいつでも読める安心感」で読んでない本が沢山ある。なのに「ビール10本買ったからいつでも飲める安心感」は約5日で終わってしまう。人は「いつでも出来る安心感」と「南の島の開放感」が大好きだ。だからハワイに数冊の本を持って行って結局ビーチで寝て過ごし、読みもしなかった本を「帰りの飛行機で読むさ」などと思いながらあれほど寝たにも関わらず寝てしまい、帰宅し「本なんか1冊でよかった」などと思う。
死がまじかに迫ってくれば「もう見られない不安感」が勝って寝る暇も惜しんで映画を見、本を読む。だろうか?「今更見てどうなるという脱力感」が勝つような気がしてならない。こうして人は死に行くのか。明日こそラジオ体操をやろう。と今は思っている。