『敗北と死に至る道が生活』その2874
テレビの電源をオンにするとトリンドルなんとかってのをやたら見かけるが、うまいこと言ってるところを見たことが無い。何であんなに使われてるんだろう。需要があるのだろう。こっち側でなくあっち側に。こっち側としては春香クリスティーンのほうがまだいい。そんなことは本当にどうでもいいが、ルーチンワークって怖いという話。新聞配達が契約やめてもしばらく入っていたりするのはまだいいとしても、コンビニで「スプーン要りますか?」と聞かれたのでいりませんと答え、「エディーで」「どうぞ」「シャリーン」やらのやりとりをしている間に結局スプーンが入っていたり、「レジ袋要りません」というカードをわざわざカゴの上に置いたのに、おばちゃんが即効で外して、バーコード読み取り作業をやっているうちに忘れてしまい結局最後にレジ袋を入れられたり。空港の手荷物検査で、横にしか出来ないボストンバッグを「横にしてもいいですか?」と聞かれたり。一連の手順になっているから無意識にそうしてしまうのだろう。ある意味ロボットである。
私もすし屋でバイトしてたころ、「シャリとってサビぬってネタのせて並べる」。という一連の作業になれてしまっているので、サビ抜きを忘れがちだった。「シャリとってサビぬってネタのせて並べる」このラップのような手順から「サビぬって」を除去出来なくなっているのだ。四拍子が三拍子になってロックがワルツになってスキップが上手に出来ない人みたくなる。ある意味ロボットである。店長はサビ抜きの注文が入った場合はすかさずサビにフタをしていた。そうするとBメロからサビに手を出した瞬間に気がつく。私はロボットじゃない。と。
食事にしても「時間がきたから食べる」でなく「腹が減ったら食べる」が正解なんじゃないだろうか。そういう意味では自動で這いずり回るお掃除ロボットなんかは充電が切れたら自ら充電器に向かうと聞く。ある意味ロボットじゃない。が、結局はロボットである。なにせお掃除ロボットなんだから。
疑わないルーチンワークは怖い。一度疑って大丈夫だと思ったルーチンワークは便利だ。だが時代にそぐわなくなってきても延々とそれを繰り返してしまう。上司がそうやってきた仕事のやり方が現在正しいとも限らない。やり方を変えると上司は自分を否定されたかのような気分になる。これが老害ってやつ。悲観論ばかり述べる(=自分の出る幕は終わった)ダイソーの社長の柔軟性には好感が持てる。ソーシャルネットワークを自身が使ったことが無いと言って辞めたヤフージャパンの社長も好感が持てる。
柳は風にゆれて耐えない。沈下橋は抵抗を減らすため欄干もなく、大水の時は自らを沈めて耐えない。耐えないから壊れない。穏やかな人生にしたければ意地を張らないこと。妙なプライドは捨てること。のれんに腕押し。ぬかに釘。を入れると鉄分が出ていいらしい。が錆びる。