『敗北と死に至る道が生活』その292
たらこスパゲッティを食べると少なからず「たらこの粒」がお皿に残る。口の中に入った粒と、お皿に残った粒の運命は私のサジ加減ひとつだ。実際にはサジではなくフォークだったりするのだが。明太スパゲッティを食べると少なからず「明太の粒」がお皿に残る。口の中に入った粒と、お皿に残った粒の運命は私のサジ加減ひとつだ。実際にはイタリアと日本が偶然出会ったに過ぎない。
だから私の両親はお見合い結婚だ。だからの意味がよく分からないのだが。昭和初期の話だから私はよく知らないが群馬の片田舎者同士が、どういういきさつかよく知らないが、とにかくお見合いしたらしい。
会って直ぐに結婚したそうだ。この辺りの感覚がよく分からないのだが、当時はそんなものだったのかもしれない。おそらく私の生まれる前の話だろうがそういうことだ。この2人が結婚しなかったら私はこの世に存在しない訳で、そう考えれば私も随分と不安定な運命なのだなぁ。と思いきや殆ど全ての人が生まれるべくして生まれてはいずに、偶然生まれてきたに過ぎない。必然性があって生まれてきた人はいない。なんて脆く儚い運命なのだ。
だからって自分がこの世に生まれたことに感謝などするものだろうか。自分の代わりに生まれてきた奴の方がよっぽど優秀で社会の役に立つとしたらどうだ。出てくる奴がヒトラーなのかアインシュタインなのか開けてみるまで分からないのだ。
偶然宇宙という空間があって、偶然地球に生命が生きていける環境があって、偶然生命を授かって、偶然日本に生まれて偶然生きているに過ぎない。そして偶然出会って偶然一緒に暮らして偶然幸せを偶然感じているだけで、不幸だと感じるならばそれも偶然に過ぎない。