『敗北と死に至る道が生活』その401
関西での松竹芸能の位置付けはどうなんだろうか。私は関西人で無いのでよく分からないが、例えば若い人がお笑い芸人になりたかったりすると吉本入らずに松竹芸能に行くということはどのくらいの感覚なのだろうか。滑り止めに国士舘受けとく感覚だろうか。滑り止めに早稲田受けとく感覚だろうか。どのくらい違うのか分からない。成田に行くのに成田エクスプレス使わずに京成スカイライナー使う程度の感覚なのだろうか。例えば関西出身の人に『成田エクスプレス使わずに京成スカイライナー使う程度の感覚?』と聞いても『例えがよう分からんわ』と言われることだろう。関空だって距離的には和歌山にあるのだから分かりそうなもんだが。
ウィンドウズ使わずにマック使う程度の感覚なのだろうか。
i-mode使わずにTU-KA使う程度の感覚なのだろうか。
リーバイス使わずにボブソン使う程度の感覚なのだろうか。
原監督使わずに堀内(首の黒子が復活している)使う程度の感覚なのだろうか。
石橋を叩いて割る程度の感覚なのだろうか。
石橋を単なる金だと割り切っているに違いない鈴木保奈美程度の感覚なのだろうか。
三色ふりかけでゴマシオだけ極端に残ってしまう程度の感覚なのだろうか。
電子レンジでイカのフライ的なものを温めると時折爆発する程度の感覚なのだろうか。
穂積ペペのペペが平仮名なのか片仮名なのか分からない程度の感覚なのだろうか。
梨の絵をかけと言われても得てして林檎になってしまう程度の感覚なのだろうか。
風呂上りの脱糞はなるべく控えたい程度の感覚なのだろうか。
職員室まで行くには廊下だ廊下。
私は老化だ老化。
例えば薄暗いバーのカウンターで、煙が目に染みるならば渋いが、実際は氷が歯にしみるのだ。情けないったらない。