『敗北と死に至る道が生活』その422
渋谷公会堂。『浮世の姿』やんないか。頭の中の仮想ライブでは常に『浮世の姿』が演奏されている。しかも1曲目だ。まぁ最後でもあるのだが。私は妄想癖がある。テレビを見れば全部自分に置き換えてしまう。と言ってもソニーの気持ちになる訳ではない。『どっちの料理ショー』なんか見た日にゃ、つべこべ言わず両方喰えばいいじゃねぇか!!と思いながらも選んでいる。外れたら『あぁ喰えないのか~』と思いながらも、当たったって喰えないだろが。
16歳で殺されて火をつけられた少女のニュースを見れば、頭を金槌で殴られている自分を想像してしまう。かなり痛い。知人に殴られ、死を覚悟した時の気分はどんなだろう。ブルータスという雑誌は今もあるのだろうか。火をつけられた時の映像が俯瞰で浮かぶ。かなり怖い。
少女の両親は今どんな気持ちだろう。あの報道された男は法に守られて生きている。税金で飯食っている。あいつとさえ知り合わなければこんなことにはならなかった。何故うちの娘がだ。私が父親なら面会に行って射殺する。射殺して犯人になったとしても法に守られて生きていけるのだ。といつのまにか父親になっている。
ロープウェイから転落死した老夫婦がいたと聞けば、自分だったらどうだろうかと。ゴンドラにはつかまるような場所も無い。よしんばつかまったとして、彼女の方は既に窓から投げ出されている。タイミングよく腕を握り合ったとして、それが何分もつだろうか。ベルトをほどいてなんとか体を支えられないだろうか。20m落下する最中に気を失えればまだ楽かもしれない。とにかく握力を鍛えなければだめだ。
子供も立派に成人になって、これからの老後を二人でゆっくりしようと思った矢先に死んでしまった。葬儀に参加した親戚の気分になってみる。あのロープウェイにさえ乗らなければ。はたまた前後のゴンドラに乗っていた人はどんな気分だったろうか。目を離した監視員の今後の人生はどうだ。
私は全てを最悪の方向に考える。この前テレビでレポーターがダチョウの子供を抱えていた。ダチョウが突然振り向いて自分の眼球をつついてきたらどうするのだ。絶対ありえないとは言えない。私にはダチョウを抱えることも出来ない。何も出来ない。
髭剃りも怖い。自分が突然おかしくなって唇を切ってしまうかもしれない。絶対ありえないとは言えない。私は髭を剃るのが怖い。どうせまた伸びてくるのだから剃らなくてもいい。電気式のほうがいい。
妄想癖がひどいせいで映画が見られない。ちょっとしたシーンで自分だったらと考えてしまうからだ。妄想している間に映画のストーリーがわからなくなる。集中力がないとも言えるし、妄想に集中しているとも言える。
平凡な人生をおくるのも結局綱渡りだ。とにかく握力を鍛えなければだめだ。