『敗北と死に至る道が生活』その2419
「音楽と人」を買った。Japanよりミヤジの言葉が引き立っているのはインタビュアーが上手いからだろう。20代の方達には漠然と分かるのかどうかも判断できない年齢になってしまったが、エレカシ同年代の人たちはどうだろう。「京都にビルがあった」というのが非常に分かりやすかった。そんなの当たり前だというのは自分自身が大人になりすぎたのだ。日本中をバイクで旅していた頃はいちいち感動していた気がする。今では醒めた感じで日常が繰り返している。その大人になりすぎた自分を見つめてどうだと。福岡からの帰りのモノレールで私も同じことを考えていた。赤ん坊を背負ったお母さん。寝てしまった赤子の首が思いっきり後ろに行ってしまわぬようお母さん自身が前屈気味にしていた。それに比べて俺はどうだろう。何もしていないに等しいではないか。のほほんと福岡までライブを見に行き、博多ラーメンを食べ、活きイカの刺身を食べ、飛行機でうたた寝して帰ってきた。そして劇的な明日がある訳でもない。
例えば娘が殺人事件の被害者になったり、逆に息子が加害者になったりしても親と言うのは、悲しみに打ちひしがれていながらも洗濯をしたり食事を作る日が遅からずやってくる。日々太陽は昇る。ハレとケで言えば人生の九割以上が「ケ」だろう。人生とはそういうものだ。外出すれば九割以上が「アスファルトの上」だ。だのに世のアーティストの多くが「ハレ」を歌っている。さぞかし海や草原の方が歌いやすいだろう。
日常と年齢と自分自身と。そしてそれを俯瞰で見ているというエレカシワールドがたまらなく好きなのだ。あなたもそうだろう。