『敗北と死に至る道が生活』その4061
昨日の日記について、メールを頂きました。ありがとうございます。薄々勘付いてはいたが、自分の洞察力のなさにより人生の彩りの部分が欠落しているんだなぁ。と、思いました。メールには二つの視点が書かれていた。ひとつは隣の人と母との会話に向かいの家の話が出て来ていて、それも含めて伝えたかった。もうひとつは、葡萄の量が少なく、向かいの家にあげたかどうか不明だが、ウチにはくれたのが嬉しかったことを伝えたかったんじゃないか。なるほど。なにげない会話から、そういうことまで読み取りながら人は生きているのか。こうなると映画や小説で不要と思われるシーンも全て意味があり、そこまで読むとより深く楽しめるのだろう。私にはそのような感性がない。だから無機質で冷たい視線しか向けられないのだ。
かと言って全てにかんして洞察力がない訳でもなく、玉川上水暗渠を歩けばアスファルトの道に欄干だけとりのこされていたりすると、しばし眺めて遠い過去に想いを馳せる。妻に「こんなところに欄干だけ取り残されている」と言ってもそっけないもんだ。色んな人がいてそれでいい。それが生きている証。