管理日誌エッセイ
『敗北と死に至る道が生活』その30
こうは見えても私だって暑いときは暑い。毎年夏になれば軽井沢の別荘のパンフレットを眺めている夢を見ているような気分でいる人とは友人にはなりたくないなぁと思う気持も萎えがちだ。
部屋に居ればクーラーのひとつも入れたくなる。ふたつあっても無意味だからだ。部屋のクーラーのスウィッチを入れると部屋が(COOL)涼しくなる。この当たり前の事実に誰も疑問を持たないのだろうか(?)。疑問を持たないことが疑問だ。
私は部屋が涼しくなくてもいい。私だけが涼しければそれでいいのだ。
例えば掃除機が置いてある部屋の片隅。そこも涼しい。そこが涼しいことに何の意味があるのだろうか。そんな場所を涼しくするエネルギーはだいぶ無駄である。贅沢は言わない。私の体の周囲1cm程度の空気が涼しければそれでいいのだ。
例えば電子レンジは中に入れたものだけが温かい。不思議なことに電子レンジ自体は熱くならない。これを逆に応用すれば人体だけが涼しいクーラーというものが出来ても不思議ではない。一体家電メーカーは何をやっているのだろうか。それで二酸化炭素を減らそうなんてちゃんちゃらおかしい。京都会議を守らないアメリカは正しいとも言える。やっぱり正義の国だ。正義のためなら(銃)戦争だって拒まない。健康のためだったら死んでもいいと言う人と同レベルなのだ。アメリカは。
一方で洗剤の要らない洗濯機が発売されて文句を言っている洗剤メーカーは滑稽だ。そんな暇があったら『洗濯機の要らない洗剤』を開発して対抗すればいい。目には目やに。
一見出来そうに無いからといって始めから諦めるな。
と思う気持も(泣)萎えがちだ